PHP No.705より
「ごめんね・いいんだよ・ありがとう」
定時制高校の教職時代、クラスで“いじめ”があったり、もめごとが起こると、二時間続きの授業時間を利用して、クラスの生徒全員を夜の芝生に連れ出しました。そこでみんなに告げます。「今日のいじめをどう思うか考えろ。ただし一時間、一言も喋るな」。その後、残りの一時間でいま思っていることを書かせるのです。
最初の一時間、みんな“やべえなあ”“なんでいじめられた奴はおおっぴらにするんだよ”“俺いじめたから退学かなあ”“これでもっといじめられる。どうしよう”などいろいろなことを考えています。一時間後、私が「くどくど言い訳は書くな。一言だけ書け」と言うと、いじめた子は「ごめん」、いじめられた子は「辛い、悲しい」と書きます。
その気持ちをなぜ大切にしない、やばいことをしたら、言い訳せず「ごめん」と謝れ、辛かったら泣け、それがお前たちのほんとうの心だろうと私は彼らにそう諭します。
くどくどと辛く悲しかった思いを話し出すと、辛い過去が思い出されてまた辛くなります。だから私は子どもたちと一緒にいるときは何も喋りません。悩みや言い訳をどれだけ重ねたところで、過去も現在も変わらないのですから。
でも、明日は作れます。“明日を生きる勇気をくれる言葉”として、私が話すのは「いいんだよ」の一言です。何があってもいいのです。窃盗、援助交際、リストカット、やってしまったことはしようがない、それはそれでいいのです。
“許し”の言葉を待っている
いまのおとなは子どもたちを関わるとき、「何やってるの。ダメじゃない」と否定・ダメ出しから入ります。その言葉が子どもたちの心に深く刺さって彼らを苦しめます。否定から入ってしまってはいい人間関係は生まれません。「いいんだよ」の一言が“許し”となって、子どもたちは泣くのです。そして改めていまのまま、ありのままの自分を認めることから始めるのです。
でも、「いいんだよ」といっても、死ぬことだけはダメです。私は夜回りのとき、子どもたちに「何かあったら電話して」と電話番号やメールアドレスを教えています。メールは二年九ヵ月で二十六万件も着信しました。「死にたい」という電話がかかってくることもよくあります。「死にたい人がなぜ電話してくるの」と聞くと、ハッと気づいて「生きたい、助けて」に変わります。
言葉は言霊といわれるように魂をもっています。ですから安易に使うと、言葉によって自分が導かれてしまいます。
いまの子どもたちはほんとうによく喋ります。会話が苦手な世代といわれているのになぜ、と思われるでしょうが、携帯電話でいともたやすく言葉を並べています。そして何の心も籠もらない「愛している」の字面に騙されて、心身ともに傷つけられているのです。それだけではありません。「殺して」と発信して殺される、「死にたい」で集団自殺が起きるのですから、正確に気持ちを伝えるために言葉の重さを知って、真剣に言葉を選ばねばならないのです。
“人のため”が明日への勇気になる
私の電話は三分、メールは三行と短くて余分なことは言いません。「いいんだよ」の後には「悩むより、人のために何かしてごらん。きっと返ってくる“ありがとう”が君の明日を生きる力になるよ」と告げるだけです。
人は人に必要とされて初めて自分を認めることができます。いま子どもたちが苦しんだり、心を病んでしまうのは、自分が必要とされていない存在だと思っているからなのです。
おとなは子どもたちを認め、褒め、仕事(役割)を頼み、やってくれたらまた褒めて、「ありがとう」と感謝してやってください。それが彼らの勇気となり明日を生きる力となっていくのですから。
【PHP 705号 2007.02 p.30 水谷 修】
対子どもだけでなく、対大人であっても“許す”ということは、難しくその反面とても大きなものと感じました。
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